時に笑い、時に苦しみ、時に涙する。すべてはグランドへ。
ソフトボールを通して成長していく小学生とその保護者、スタッフの物語。
野球には絶対的なものがあります。
それなしには野球そのものがなりたたない。
それは「ルール」です。
その具現者が「審判」。
しかし、審判も人間である以上間違いもある。
私はこう思います。
完ぺきではないから面白いと。
審判をロボットやコンピュータにするという案もあるようですが、生身の間違いのある人間がやるから面白いと思います。
時として誤審もある。現にサッカー日本代表のあのUEA戦の浅野選手のゴール。
ゴールラインを割っていたでしょう。
理不尽なこともある。
それでも覆らない現実。
指導者の不理解で負けることもあるかもしれない。
しかし、私はこう思うんです。
そういうのもひっくるめて勝ち切ろうと。
いろんな間違い、ミス、エラー、そういうのって起きた時点でもう仕方ないこと。
ただし、絶対それは違うだろうというものは抗議します。
ここまではいい、でもここは許せない。それは指導者としての私の矜持によります。
磐梯山噴火記念大会。
いろんなものが味方してくれなかったといいました。
いつもはボールだと思っていたコースがストライク。
いち早く気づきました。
今日は外にひろいと。
そして、イーグルスの攻撃、相手の攻撃で同じコースをとったかを見極める。
ブレていませんでした。
お互いのチームにとって外がひろいことを確認できました。
タカヤ、マナヤは不満たらたらです。
自信をもって見逃した球がストライク。
「なんだよ、ちくしょー、ボールだよ。」と悪態をつきます。
こんな言葉が出てくるようではまだまだだと思いました。
悪態ではなく考察であればいいのですが、ただの不満を感情のままぶちまける。
小学生レベルであればしかたのないことでしょうが、あいつらのあほなところはそれを面と向かっていわずに、聞こえるようなくらいで吐くところ。
一見、自分はできる。高度なところの間違いを指摘できるくらい、俺はできる。
そんな傲慢さを感じます。
小学生ふぜいが何をわかってんだと思います。
そういう私も昔はそうだったのかもしれない。
悪態をつくことで、わかったような気がしていた。
しかし、今はこう思います。
いくら悪態をついたところで、すぐには状況はかわらない。むしろ感情論になってこじれることが多い。
正々堂々、審判に今のが入っているんですか?と聞くならまだしも、陰でこそこそ文句をいうことしかできない小心さ。
ここはがっかりします。
まだ、黙々と戦っている奴らのほうが頼もしい。
文句をいって状況が変わるなら、文句をいう練習をしたほうがいい。
あの試合はやりすぎたと思いました。
審判も人間です。公正なジャッジを心得ながらも、悪態をつくチームの微妙な判定に人間的な感情が入ることもあるでしょう。
幾分敵に回したと思います。
では、どうすればよかったか?
文句をいうのはいいですが、あくまで内輪にとどめておく。
そして、その外角の広さをみなに教えて注意喚起するくらいしないと。
その広さを逆に利用するくらいのしたたかさを持つべきだった。
円陣を組んでるさなかも、「あの審判むかつくー。」なんという言葉は思っても吐くべきでない。
「そんな聞こえるようにいうな。」と私がいっても不満の態度。
本人たちがわからないと意味はないでしょう。
私が観客であったら、「なんだこのチームは。」といやな気分になる。
全てを敵に回してしまう。
文句をいう、悪態をつくの次のステップにいってほしい。
ジャッジさえも味方につけるような感情を超えた柔軟性と人に対する謙虚さ。
それを未熟な小学生に求めるのは酷な話ですね。
でも、今私がいってることが、あとで役に立つかもしれない。
「あーあんとき監督はいってたのはこのことか!」と。
オリンピックでさえも、多くの誤審があった。
その誤審で負けた選手。
ものすごく文句をいいたかったと思います。
柔道の篠原選手もそうでした。
しかし、「自分が弱かったから負けた。」自分の心に折り合いをつけた。
理不尽さと向き合う。そして付き合う。最後に味方にする。
逆境に弱音や悪態、文句をつけてもいい。
けど、最後には、周囲を気分悪くさせることなく、自分自身に折り合いをつけれるようになって欲しい。
勝つにしろ、なんでもいいから勝つのでない。
勝てばいいではない。
私も含めて、選手たちを含めて、気持ちよく勝ちたいし、負けるときは気持ちよく負けたい。
イーグルスに文句はいりません。
俺に聞こえないように言え。
そして切り替えろ。
私のいいたいことはわかってくれると思います。
審判さえも味方につけるイーグルスであってほしい。そう思います。
それなしには野球そのものがなりたたない。
それは「ルール」です。
その具現者が「審判」。
しかし、審判も人間である以上間違いもある。
私はこう思います。
完ぺきではないから面白いと。
審判をロボットやコンピュータにするという案もあるようですが、生身の間違いのある人間がやるから面白いと思います。
時として誤審もある。現にサッカー日本代表のあのUEA戦の浅野選手のゴール。
ゴールラインを割っていたでしょう。
理不尽なこともある。
それでも覆らない現実。
指導者の不理解で負けることもあるかもしれない。
しかし、私はこう思うんです。
そういうのもひっくるめて勝ち切ろうと。
いろんな間違い、ミス、エラー、そういうのって起きた時点でもう仕方ないこと。
ただし、絶対それは違うだろうというものは抗議します。
ここまではいい、でもここは許せない。それは指導者としての私の矜持によります。
磐梯山噴火記念大会。
いろんなものが味方してくれなかったといいました。
いつもはボールだと思っていたコースがストライク。
いち早く気づきました。
今日は外にひろいと。
そして、イーグルスの攻撃、相手の攻撃で同じコースをとったかを見極める。
ブレていませんでした。
お互いのチームにとって外がひろいことを確認できました。
タカヤ、マナヤは不満たらたらです。
自信をもって見逃した球がストライク。
「なんだよ、ちくしょー、ボールだよ。」と悪態をつきます。
こんな言葉が出てくるようではまだまだだと思いました。
悪態ではなく考察であればいいのですが、ただの不満を感情のままぶちまける。
小学生レベルであればしかたのないことでしょうが、あいつらのあほなところはそれを面と向かっていわずに、聞こえるようなくらいで吐くところ。
一見、自分はできる。高度なところの間違いを指摘できるくらい、俺はできる。
そんな傲慢さを感じます。
小学生ふぜいが何をわかってんだと思います。
そういう私も昔はそうだったのかもしれない。
悪態をつくことで、わかったような気がしていた。
しかし、今はこう思います。
いくら悪態をついたところで、すぐには状況はかわらない。むしろ感情論になってこじれることが多い。
正々堂々、審判に今のが入っているんですか?と聞くならまだしも、陰でこそこそ文句をいうことしかできない小心さ。
ここはがっかりします。
まだ、黙々と戦っている奴らのほうが頼もしい。
文句をいって状況が変わるなら、文句をいう練習をしたほうがいい。
あの試合はやりすぎたと思いました。
審判も人間です。公正なジャッジを心得ながらも、悪態をつくチームの微妙な判定に人間的な感情が入ることもあるでしょう。
幾分敵に回したと思います。
では、どうすればよかったか?
文句をいうのはいいですが、あくまで内輪にとどめておく。
そして、その外角の広さをみなに教えて注意喚起するくらいしないと。
その広さを逆に利用するくらいのしたたかさを持つべきだった。
円陣を組んでるさなかも、「あの審判むかつくー。」なんという言葉は思っても吐くべきでない。
「そんな聞こえるようにいうな。」と私がいっても不満の態度。
本人たちがわからないと意味はないでしょう。
私が観客であったら、「なんだこのチームは。」といやな気分になる。
全てを敵に回してしまう。
文句をいう、悪態をつくの次のステップにいってほしい。
ジャッジさえも味方につけるような感情を超えた柔軟性と人に対する謙虚さ。
それを未熟な小学生に求めるのは酷な話ですね。
でも、今私がいってることが、あとで役に立つかもしれない。
「あーあんとき監督はいってたのはこのことか!」と。
オリンピックでさえも、多くの誤審があった。
その誤審で負けた選手。
ものすごく文句をいいたかったと思います。
柔道の篠原選手もそうでした。
しかし、「自分が弱かったから負けた。」自分の心に折り合いをつけた。
理不尽さと向き合う。そして付き合う。最後に味方にする。
逆境に弱音や悪態、文句をつけてもいい。
けど、最後には、周囲を気分悪くさせることなく、自分自身に折り合いをつけれるようになって欲しい。
勝つにしろ、なんでもいいから勝つのでない。
勝てばいいではない。
私も含めて、選手たちを含めて、気持ちよく勝ちたいし、負けるときは気持ちよく負けたい。
イーグルスに文句はいりません。
俺に聞こえないように言え。
そして切り替えろ。
私のいいたいことはわかってくれると思います。
審判さえも味方につけるイーグルスであってほしい。そう思います。
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